献血に行ってきました9
今回はラブラッド(日本赤十字社)より、O型の血液が足りないとメールが来ました。今月の2日と7日に。それで「これはいかん」と予約をして行ってまいりました。なんだ、メールまで来ているのに一度は無視しているじゃないかという批判は甘んじてお受けいたします(確かに、2日の時点で7日以降の予約を入れていたわけではありません)。私の正体不明の「(何かありそうだから)(多分)忙しい」はそれほど手強いのです。
いつものように私が勝手にホームグラウンドと呼んでいる川口駅献血ルームに行きました。ありがたいことに献血はいつものようにつつがなく終了し、そして看護師さんから成分献血のお声がけをいただきました。なんと今回は記念品までいただきました。
ふと、改めて私はなぜ献血に行くのだろうと考えました。
やはり、まず根底にあるのは「人の役に立ちたい」ということだと思います。
もちろん、何らかの仕事をしている時点で既に社会の役に立っているわけですし、社会で役に立っている人をサポートする人、これから社会を担う人材を育成している人も社会の役に立っていると言っていいでしょう。(寝たきりなどどのような状態であったとしても)社会の人々をさまざまな意味で励ます人も役に立っていると思います。何らかの事情があってできないが、役に立ちたいとは思っている人も、いいのではないでしょうか。そうなると役に立っていない人を探すのが難しいという話になってしまいます。
今回は敢えて、基本的に「役に立っている」以外の、プラスアルファの親切ということにします。嬉しいことに日常生活でも数多くのプラスアルファの親切を、町で目にします。
ご年配のかたが転んでしまいすぐに数人の方が駆け寄るというのは何回も目にしていますし、電車のホームで気分が悪くなってしまった人を介抱する人、電車の中で席を譲る人、公園で迷子に小さい子に声を掛け一緒に保護者を探してあげる人、困った様子で立っている目が不自由なかたに声を掛けている人、バスからベビーカーを降ろすのをサッと手伝う人、切符など機械の操作がわからなくて困っている人を助ける人、世の中は結構親切な人だらけだなとさえ思います(もちろん、親切をしたくても何らかの理由でできない。または気持ちはあるけれど単にチャンスがないという方は、いらっしゃると思います)。余談ですが、街中で目の不自由な方が歩いているときは、行く末を見守る、幼児や小学生低学年くらいの子が一人で公衆トイレに入ってきたら何となく注意を向けておくことは個人的に習慣になっています。
しかし、ふと人の役に立ちたいなと思っても、街を歩きながら誰か転ばないかなとか、誰か気分が悪くならないかなとか、どこかに迷子がいないものかとは当然思わないわけです(思っていたら怖いですね笑)。
私が役に立ちたいなと思ったそのニーズに割とすぐ応えてくれる場所が献血ルームです。
献血自体はテレビを見ながら横になっているだけで終わります。見方によっては超簡単です(超簡単でもリスクはあります。この記事の最後の補足をお読みください)。
そしてスタッフの方々は、ご協力ありがとうございますと口々に言ってくださいます。
しかし私にとっては、人の役に立ちたいと思ったニーズにすぐ応えてもらって、こちらがお礼を言いたいくらいで(むしろ人の役に立ちたいという欲求を手っ取り早く満たしたいとさえ思ったわけで)そんなありがとうなんて滅相もないのです。
また献血は、表現的に適切かはわかりませんが、自らを差し出しているという実感が感じられます。血液そのものが基本的に輸血または血液製剤としてしか役に立てようがないという確実性もあると思います。この確実性に対するものとして考えられるのが募金ではないでしょうか。募金はお金であり、交換性が非常に高いので(だからこそ収支報告など厳格に行われているのだと思いますが)何に役立てられているのか、具体的にイメージしにくいということがあります。決して募金がダメだと言っているのではなく、単に献血がわかりやすいということです。そのかわりと言っては何ですが、募金のリスクは手持ちのお金が減るということだけで、健康上のリスクはまず0と言っていいでしょう。このような意味で募金の方がいいという人も当然いると思います。
上記のことより、「思いたった時に」「(私の見積もりでは)リスクも非常に少なく、自らを差し出しているという貢献感を強く感じられる」「使い道の明瞭性により充実感が非常に大きい」という意味で、どうも私は献血が現代風にいうと「コスパがいい(少ない負担で、確かな貢献実感があるという意味で)」と考えているようです(しつこいようですが、募金がダメだと言っているのではありません)。
さて、これまでつらつらと述べたことに関連する言葉で、三輪空寂(さんりんくうじゃく)があります。私の記憶によれば、施す人、施される人、施されるものの三つ(三輪)が、執着を離れている(空寂)ことを意味します。私はあの人にこれだけのものを施したのだから、さぞかし感謝されるに違いないというのは真逆のことであります。また受け取る方もこんな素晴らしいものをいただいて随分な恩を受けたものだというのも、これには当てはまりません。
人の役に立ちたいことは良いことだと思いますが、それで褒められないから憤るとか、ありがとうと言わないから恩知らずだとか、あわよくば医院のブログのネタにして褒めてもらおうとか思ってはいけないということだと思います(しっかりブログにしていますが)。一旦、差し出したら、そのお金がどう使われるのか、血液がどう使われるのなんかどうでもよいのです(と勢いで言いましたが、どうでもよくないですね笑)。差し出せたこと、それでおしまい、が後腐れなく尊いのだと思います。
人の役に立ちたいと思いつつ、また必要以上に良いことをしたと悦に入ることもせず、落ち着いて、着実に続けていきたいと思います。
補足・ちなみに超簡単と書きましたが献血のリスクはゼロではありません
(献血の同意説明書の副作用については以下の記述があります)。
1. 献血に伴う副作用等について
① 気分不良、 吐き気、 めまい、 失神などが 0.7% (約 1/140 人)、 失神に伴う転倒が0.008% (1/12,500 人) の頻度で発生します。
② 針を刺すことによる皮下出血が 0.2% (1/500 人)、 神経損傷 (痛み、 しびれ、 筋力低下など) が0.01% (1/10,000 人) の頻度で発生します。
(医療機関の受診を伴う副作用には、 「献血者健康被害救済制度」 が適用されます。)
③ 成分献血では、 血液が固まらないように抗凝固剤 (クエン酸ナトリウム) を使用しているため、 口唇や
手指のしびれ感などの症状が現れる場合や、 予期せぬトラブルなどにより血液をお返しできない場合が
あります。
