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たくさんのふしぎ「食べる」2024年1月号

[2024.08.16]

今回は福音館書店から出ている月刊「たくさんのふしぎ」の2024年1月号「食べる」を紹介したいと思います。

福音館書店といえば絵本の老舗と言いますか、ぐりとぐら、だるまちゃんとてんぐちゃん、しょうぼうじどうしゃじぷた、ぐるんぱのようちえん、かわ、たろうくんのおでかけ等々(長くなるのでこの辺でやめにします)、超強力ラインナップを誇る出版社さんです。ご存知の方も多いと思います。

物語は、夜の7時にひとりで夕ご飯を食べるところから始まり、そして終わります。この話を一言で説明すると、夜の7時にひとりで夕食をとる話です。人々が(ほぼ)毎日行っている日常の一コマである「夕食を食べること」を通して食事について深く考察しています。

話はそれますが「狭い範囲を深く」ということでは、ライターの古賀及子さんが日記の書き方について、「5秒のことを200字かけて書く」と述べている文章を読み、これは至言だと深く唸ったことを思い出しました。日記というと朝から夜まで時系列に出来事を書き出し、それぞれの出来事について「楽しかったです」と一言感想を付け足していく書き方が、小学生メジャースタイルなのではないかと思います(よくある読書感想文もその形式になりがちだと思います)。日常の一コマから深く考察していくやり方は誰にでも開けていてオリジナリティーがよく出るのではないでしょうか。当ブログでも機会があればチャレンジしてみたいと思います。

本題に戻ります。

夕食のメニューはわかめと豆腐の味噌汁、ピーマンともやしの豚肉の炒め物。それから白いご飯、納豆、そしてコップに満たされた水です。
静かに食事をとっているだけのようですが、ここから作者の想像が膨らんでいきます。

(文章中から印象に残った所をそのまま、または部分的に引用し、または要約を述べながら感想を書いていきたいと思います)

・「白いサイコロみたいな豆腐」「鼻と口のおくに広がるみそ汁のかおり」「ピーマンのテカっかがやく緑色」「もやしのシャキッとした歯ごたえ」

「白いサイコロにみたいな豆腐」「鼻と口の奥に広がる味噌汁のかおり」「ピーマンのテカっとかがやく緑色」「もやしのシャキッとした歯ごたえ」などなど、視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚?を通した生の感触に注目しています。
急いで食べていたり、本を読みながら、テレビを見ながら、スマホをいじりながら食事をしていると、これらの鮮やかな感覚がぼやけてしまいます。以前のブログ記事、マインドフル・イーティングの勧めでご紹介した食事法にも繋がるでしょう。

食べている時には五感を使って、食べていることに全力で取り組むと満足感も大きいですよね。食欲をコントロールするのにもいいと言われています。食事しながらの会話も楽しいですが、マインドフル・イーティングは純粋に食事を楽しむということにもなります。本文にも「食べることは、車にガソリンを入れることとは違う」とあります。

・「あなたは、食べものといっしょに思い出も食べている」

筆者が思い出すのはお腹を空かせて登った山の頂上で食べたおにぎりの味です。おにぎりの味に山を登った達成感と空気の爽やかさ、景色の良さも一緒においしさとして足し合わされているのでしょう。
私も、焼き芋や茹でたとうもろこしを食べる時、今でも小学生時代のおやつを思い出します。おやつを食べたいと思って冷蔵庫を開けて見つけた時の喜びや、とうもろこしをかぶりついて食べる日と綺麗に指でほぐしながら食べる日をわけていたこと、焼き芋屋さんに窓からお金を渡して売ってもらったこと、焼き芋が入っていたのは新聞紙の袋だったなーなど楽しく思い出します。

家族での団欒が懐かしく思い出される味や、仕事で疲れ切った時に救われた味、ときには悔しかった、辛かった記憶が呼び戻される味などもあるのではないでしょうか。

 

・「食べ物は、ちょっと前まで生きていた」

今度は目の前に並んでいる食事にかつて命があった時のことを考えます。
「このみそ汁の豆腐の大豆は北海道産。ワカメは岩手県の三陸沿岸。ピーマンは高知県だね。つぎにお米のはいった袋を見てみよう。島根県産と書いてある」
「その食べ物が生きていた頃から食料品になって、鉄道や飛行機トラックに乗って旅をして、スーパーや八百屋の店頭に並び買い物カゴの中に入って家の玄関をくぐり冷蔵庫で保存され焼かれてたり、茹でられたりしてあなたの口に入ろうとしている」

どちらかというと食べ物が元をたどれば生き物だったということは目を背けたい事実かもしれません(元が生き物ではないのは塩くらいなものでしょうか)。誰だって自分が生き延びるために他の生命をあやめているとは考えたくはないでしょう。

このことは重々承知であるはずなのに、私は、この料理は口に合うとか合わないとか(心の中で)判断してしまっています(それ自体は悪いことではないと思いますが)。私は子どもに、命を頂いていいるんだから食べ物を粗末にするな、とか口うるさくいう方だと思いますし、親からもよく言われていたことですが、改めて食事の時にちゃんと意識しているかと言われると恥ずかしながらそんなことはありません。

もう少し踏み込んで私の場合を顧みると、せっかく頂いた命なのだから粗末にしてはいけませんと、子供達が残したものなどを無理やり口に詰め込んで食べ過ぎになってしまう根拠になっている印象があります(場合によっては食べ過ぎることを正当化してしまっている向きさえあります笑)。体重増加もやむなしです。そうではなくて最初から無駄に(食べ過ぎに)ならない量を考えなければいけませんね、反省します。

 

・「あなたは、たくさんの人とのつながりも食べている」

文中で挙げられていた人の繋がりは、「味噌を仕込んだおばあちゃん、お米を育てた農家さん、田んぼに水を引く水路を掃除した人々。お米を運ぶトラックの運転手。豚肉になる豚を愛情込めて育てた人、豚を運ぶ人、豚をさばく人、肉をトラックで運ぶ人、豚肉に値札をつける人、そして豚肉を料理する人」さまざまに挙げられていました。実際はもっと挙げられています。

たくさんの人のバトンリレーのおかげでようやく私は目の前の食べ物を口に入れることができるというわけです。

料理を作ってくれた人と食材を作ってくれた農家さんは、食事の時によく話題になるような気がするのですが、考えてみればそれは極々一部ですよね。私はお米を食べている時に、田んぼに水をひく水路を掃除した人のことを思ったことは(恥ずかしながら)ありませんし、豚肉を食べている時に、豚肉をトラックで運ぶ人のことを思ったことはありません。もちろんMVPは料理を作ってくれた人と、農作物を生産してくださった人だと思いますが、その方だけでは私の口に入るところまでは来ません。

普段は全然こんなこと考えませんが、改めて読んでみると心の中がすごく豊かになるような気持ちになりました。なんかこう人の網目の中に取り込まれて、良い意味で支えられているなという感じです。

・「(お米も今の品種が生まれるまで)稲作が始まってから何千年もかけて改良されてきた(倒れにくく、寒さに強く、害虫に強く、美味しいもの、収量の多いもの)。このお米の一粒に、多くの昔の人達がつながっている」

「育てただけでは、お米も豚肉も口に入れることができない」「きれいな水で洗ったり、刃物で切ったり、火で熱を加えたりして、ようやく食べ物を美味しいと感じるし、からだに吸収できる」「人類が誕生してからあなたの生きる今まで、ずっと発達してきたこの技術こそが、料理文化なんだ。そう、あなたの太古の時代から今に至る何千年の歴史も一緒に食べていることになる」

稲だってさまざまな品種改良を経て今の状態になっています。ふるさと納税のサイトを見てみると各地の自慢のお米がこれでもかと載っています。コシヒカリ、ひとめぼれ、つや姫等々(この品種を挙げたのに特別な意味はありません)美味しいお米がたくさんあります。私も今の稲穂がそのまま縄文後期から弥生時代から水田に実っているイメージをついつい持ってしまうのですが、そんなことはきっとないでしょう。もっと「あれ?これが稲穂?」というくらいのものだったに違いありません。

水田にしてみたって地面に「平らな部分」を作らなければ水田はできません。一つの田んぼであっちの苗は水に浸かっているけど、こっちの苗は浸かっていないではおそらく話になりません。品種改良の歴史とともに、整地、測量、治水の技術の発達の歴史もあることでしょう。

そして今の煮るでもない、蒸すでもない「炊く」という技術にたどり着いたのも驚きです。蒸しご飯(赤飯など今どき蒸して作ることはないでしょうが)、おかゆ、どちらも美味しいですが、毎日食べるなら炊いたご飯が個人的にはベストだと思います。炊いた上で干して干飯(ほしいい)とすれば、食べたいときにお湯で戻せば食べられる優秀な保存食となり、その技術は今でもアルファ化米として、登山の携行食や災害時の保存食として定着しています。

・「食べ物は水がたっぷり含まれている。料理にも水が欠かせない。体重が30kg とすれば、水分はその6割くらい。つまり18kg が体の中にたくわえられている。水は、だいたい4週間ぐらいにいれかわる」「あなたの体の中の水は、昔はシベリアの針葉樹林の樹冠にかかった霧だったかもしれない。太平洋に浮かぶ無人島の小さな池の水だったかもしれない。ブラジルの熱帯夜に葉っぱの露かもしれない。くりかえし自然によってろ過されて、長い旅の果てに、あなたの口にはいって、あなたを潤し、ふたたびあなたから出ていくのである」

これは似たようなことを考えたことがあります。自分を構成している炭素原子の一つはかつて白亜紀の恐竜のものだったことがあるのだろうか、はたまた東京湾のハゼだったこともあるだろうかなどなど、時間や空間を超えて想像は広がります。体の中の水は入れ替わりが激しいですから、まさに地球の水が体の中を通り抜けているという感じがします。「自分」という閉じられたものではなく、書中の挿絵にもあったのですが、半透明な状態で地球が自分の体の中をすり抜けていくイメージを持ちました。

そんなに活発に自分の体を地球が通り抜けていくとすれば、地球そのものの健康状態を示す環境問題にも無関心ではいられません。

・「ちなみに、体をつくる筋肉のもっとも大事な材料であるタンパク質は180日で半分がいれかわる。あなたは、たえず地球上から送られる物質を食べて、体の材料をいれかえつづけなければ生きていけない。にもかかわらず、どうして明日も、1か月後も1年後も「自分は自分である」と思うことができるのだろう。それを可能にしているのが、塩の片割れであるナトリウムイオンが重要な役割をはたす神経系、とくに脳だ。脳に記憶される「思い出」が、たとえ、あなたをつくるものが完全にいれかわったとしても、あなたがあなたであることを毎日教えてくれる。

水に比べて体のタンパク質は180日で半分が入れ替わるとのこと、私はもっと時間がかかるものだと思っていました。そして体の中の水やタンパク質は入れ替わっても「私」そのものまでは入れ替わらない。その一旦を担う、脳をはじめとする神経系で大きな役割を担っているナトリウムイオン、これがつまり塩の片割れというわけですね。塩だけにはないにしろ、塩のおかげで「自分」が保たれているという考え方もできるのが面白いと思いました。ちなみに私は塩味大好きです。WHO(世界保健機関)の推奨量は1日5グラムだそうですが、私は10グラム以上摂っていると思います。由々しき事態です。塩がないと物を食べても味がないと別の意味で自分を見失う可能性もあるかもしれません笑。

全体を通して言えることとしては、知らず知らずのうちに「私はこの表皮で外の世界と区切られた独立した存在」と思い込んでいますが、その枠は思ったより揺らいでいる、半透明であり外の世界と時空を超えて盛んにやり取りをしているというイメージの方が、より事実に即しているということです。自分という枠が思ったより(良い意味で)穴だらけという事実は、私に恐れではなく安らぎを与えてくれたと思います。現代は個人という部分が前面に押し出されている時代ですが、人間そのものや文化や歴史で紡がれた網目の中にいる自分であると感じることができたので、安らぎを得られたのだと思います。孤独は色々な病気のリスクファクターであることもその証左でしょう。外の世界と繋がっている、人の網に絡め取られていると考えるからこそ、月並みではありますが地球環境を守ろうとか、異民族同士仲良くしよう、卑近なところでは家族を大事にしよう、ご近所さんと仲良くしようということにつながるのではないでしょうか。

この本を読みながら、禅宗のお坊さんが食事の前に唱える五観の偈(ごかんのげ)を思い出しました(これは特定の宗派を推奨するものではありません。肩肘張らずにお読みください

その一節に

一 計功多少 量彼来処 : 功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。

一、この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。

このようなものがあります。

毎食毎食食事そのものや関わる人に感謝をすることにより、ありがたい。今日も食事ができてよかったという思いを増幅させているのかもしれません。そして自分の心に安らぎを与えているのではないでしょうか。

私も毎日使う「いただきます」にしっかり心をこめようと思います。

特別なことではなく、日々の食事を通して、日本の文化や歴史、地球とのつながりを感じられるなんて素敵ですね。毎回毎回だとその壮大なスケールに疲れてしまいそうですが笑

歯科が扱う口腔の機能の第一には「食べる」ということが挙げられます(もちろん経管栄養という状態があることは知っています)。今までは食事は単に「栄養をとるプラスアルファ」というイメージでしたが、これからは皆様の地球を感じる機能(言い過ぎですね)に携わる気持ちで精進していきたいと思います。

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